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宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶!7つエピソードがヤバい!

WBCにも出場してご活躍された宮城大弥さん。

ロッテの佐々木朗希さんと仲良しなことでも有名ですよね!

今回は、

・宮城大弥のプロフィール・経歴
・宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶!7つエピソードがヤバい!

という内容でお伝えしていきます!

宮城大弥さんの生い立ちが壮絶なエピソードもいくつか紹介します。

目次

宮城大弥のプロフィール・経歴

宮城大弥さんのプロフィール経歴をまずはおさらいしましょう!

宮城大弥のプロフィール

名前 宮城大弥(みやぎ ひろや)
生年月日 2001年8月25日
年齢 21歳(2023年5月時点)
出身地 沖縄県宜野湾市
身長 171㎝
血液型 A型

宮城大弥さんは、可愛らしい見た目から、選手からもファンからも愛されキャラです。

沖縄県の県民性もあるのではと言われていますが、とても温厚で穏やかな性格をされているようですね!

宮城大弥の経歴

宮城大弥さんは、4歳の時に地元の少年野球チームに入団して野球を始めました。

宮城大弥さんを指導した監督たちは当時のことを、

「宮城はホンモノの野球小僧だった」

と語るほど、野球がとても好きだったようです。

幼い頃から体が丈夫で、あまり故障もないということや、ハートが強いのであまり動揺もしないようです。

高校時代に2度甲子園の全国大会に出場し、3年生の時にはU-18日本代表にも選出されるなど、当時から球団関係者には有名だったそうです。

2019年の高校3年生の時のドラフト会議では、オリックス・バファローズに1位指名されました。

2000年のルーキーイヤーはウエスタン・リーグの最多勝を獲得するといった活躍をされていました。

翌年の2021年には1軍のローテーションに入るなど、期待の人材であることは間違いないです。

オールスターゲームのファン投票で投手部門トップに輝いた際には、

「間違いです。いてはいけないところに入った気がする」

と名だたる先輩投手を抑えてトップになったことに恐れ多いという気持ちを感じていたようですね。

宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶!7つエピソードがヤバい!

宮城大弥さんは幼い頃から自宅が貧乏で生い立ちが壮絶と言われています。

エピソードをまとめました。

宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶エピソード①皮のグローブが買えなくてビニール製

4歳の頃に地元の野球チームである「志真志ドラゴンズ」に入団しますが、宮城大弥さんの父親は事故にあった影響で左手が不自由になってしまい、満足に働くことが出来ず、野球道具も買う余裕がなかったといいます。

亨さんは、若い頃に遭った交通事故の影響で左手が不自由になり、定職に就くことが出来なかった

引用:週刊現代

そんな宮城大弥さんのために両親が用意したのが、

700円のビニール製のグローブ

だったようです。

野球のグローブと言えば皮の製品を思い浮かべる方も多いと思いますが、小さいサイズでも割と高価な物ばかりです。

宮城大弥さんは安価でビニール製ではありましたが、両親が買ってくれたということがとても嬉しく大切にしていたといいます。

大弥の野球道具を買う余裕はありません。
700円で売っていたビニール製のおもちゃのグローブをあげるのが精いっぱい

大弥の野球道具を買う余裕はありません。
700円で売っていたビニール製のおもちゃのグローブをあげるのが精一杯でした。
それでも大弥は、そのグローブを大事に抱えて眠っていましたね

と父親がインタビューの中で語っています。

抱えて寝るくらいとても大切にされていたのが分かりますよね!

宮城大弥さんが野球道具を大事に扱ったり、人へ親切にする姿勢はファンの方も素敵だなと思っているようですね!

宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶エピソード②自宅が狭かった

宮城大弥さんが幼い頃に住んでいた家は、6畳一間で家賃は2万8千円のところだったといいます。

夜は両親と妹と4人で横になるのがやっとで、父親か母親は座って寝ることもあったといいます。

宮城大弥さんはどんなに貧乏だからと、人からバカにされることがあっても弱音を吐かずに頑張っていたそうですね。

ご両親が一生懸命育てている姿を見ていて、心配させまいといつも笑顔ですごしていたといいます。

今の宮城大弥さんも頑張りも、両親が好きな物を買ってあげたいという思いから頑張れているというのもあるようです。

宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶エピソード③ユニフォームがつぎはぎだった

宮城大弥さんは、野球道具を買うのもやっとということもあり、ユニフォームもつぎはぎだらけのを長く着ていたといいます。

身長が伸びても新しく買い直すことができなかったため、短いままのユニフォームを着て野球をしていたようですね。

同級生にからかわれることもあったようですが、それにもめげずに野球のことをひたすらに考えていたようです。

野球への情熱で辛いことも考えないで住んでいたのかもしれませんね!

宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶エピソード④野球のスパイクが買えなくてガムテープで巻いていた

野球のスパイクは高価なものが多く、新しく買えなかった宮城大弥さんは、ガムテープを巻いていたといいます。

同じチームのメンバーからは、

俺たちがバカにされて恥ずかしい

と言われてしまったようですが、それも両親に言ったりせずに堪えたといいます。

野球がうまくなればバカにもされないという思いがあり、なおさら野球に打ち込んだといいます。

宮城大弥さんは、いじめられることもあり、宮城大弥さんがレギュラーに決まった際には、上履きをトイレに入れられることもあったようですが、それにも耐えていたようです・・・。

宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶エピソード⑤自宅から5キロあるグランドに走って向かっていた

宮城大弥さんの野球チームの練習場所は自宅から5キロあるグランドだったといいます。

宮城大弥さんは、走って向かっていたようです。

練習前にまず5キロ走るということが疲れると思いますが、野球のためにと思って走っていたのでしょうか。

体力があったり、故障がすくない丈夫な体になったのはこういったガッツもあるのかもしれませんね!

宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶エピソード⑥遠征費用を工面したら泥棒扱い

宮城大弥さんは野球の遠征費用を工面するのが大変で、宮城大弥さんの分だけ待ってもらうこともあったといいます。

なんとか両親が工面して遠征費を出すと、

宮城さん、泥棒したの?

と保護者に悪い噂を立てられたこともあるといいます。

壮絶すぎますし、幼い心にとてもショックな出来事だったのではないでしょうか。

宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶エピソード⑦具なしのカレー

両親ともにとも働きだったようですが、父親が事故による障害があったことや母親のパートでは家計は安定しなかったようです。

家計が苦しい時には、毎日具なしカレーを食べていたといいます。

礼子さんはパートに励み、亨さんも昼は当時勤めていた沖縄ツーリストの社員として、夜は興南高校の寮監として寝る間も惜しんで働いた。それでもカネが貯まることなく、出ていく一方だった。

引用:週刊現代

野球をすることにとてもお金がかかっていたのでしょうね。

九州大会に出場するとなっても、沖縄から飛行機に乗る必要がありますし、甲子園にも出ていたということから、そういった遠征費にも相当なお金がかかっていたことでしょう。

宮城大弥の貧乏な生い立ちが壮絶!7つエピソードがヤバい!まとめ

今回は、宮城大弥さんの壮絶な生い立ちや愛されキャラであることなどを見てきましたが、いかがでしたでしょうか?

貧乏でいじめられることもあったという宮城さんですが、ファンからもメンバーからも愛されるとても素敵な笑顔の持ち主です。

これからのご活躍も楽しみにしたいですね!

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