MENU

横山やすしの晩年画像と波乱万丈の人生!ダウンタウンの公開説教や競艇ボート事件など3つの伝説と山口組との関係も調査!

横山やすし

破天荒という言葉が良く似合う昭和の伝説の漫才師である「横山やすし」さん。

数々の伝説を作っている横山やすしさんの波乱の人生を振り返ってみましょう。

今回は、

・横山やすしの晩年画像と波乱万丈の人生!
・横山やすしのダウンタウンの公開説教や競艇ボート事件など3つの伝説
・横山やすしと山口組との関係も調査!

という内容でお伝えしていきます。

横山やすしさんは一体どんな方なのでしょうか!

目次

横山やすしの晩年画像と波乱万丈の人生!

横山やすしの晩年画像と波乱万丈の人生!

横山やすしさんの晩年の画像や経歴、プロフィールなどを紹介します。

横山やすしのプロフィール

芸名 横山やすし
本名 木村雄二
生年月日 1944年3月18日
没年月日 1996年1月21日
出生地 高知県宿毛市沖の島広瀬
出身地 大阪府堺市
身長 163㎝
血液型 B型

とても若くして亡くなりになっています。

横山やすしの生い立ちと経歴

横山やすしさんは、は、太平洋戦争中の1944年3月18日、高知県宿毛市沖の島の弘瀬という場所で誕生しました。

体重は2キロにみたない未熟児だったそうです。

父親は沖の島の巡業にきた旅芸人だったようで、母親は旅館で仲居として働いていた女性で、婚外子として誕生したようです。

その後、生後3か月の時に、高知県に疎開して来ていた木村家に養子に出されて、戦争が終了後に大阪府堺市に移住し、そこで育ちました。

大阪堺市立旭中学校へ進学した横山やすしさんは、同級生がラジオ番組の歌合戦で合格したことに刺激を受けます。

素人参加型のラジオ番組「漫才教室」に出演したことをきっかけにプロの漫才師を志すようになりました。

中学卒業後に、横山やすしさんは、「松竹新演芸」という現在の松竹芸能に入社します。

漫才作家の秋田實さんに弟子入りして修行を積みます。

修行をしながら、横山やすしさんは「堺伸スケ」という芸名を名乗って同級生と漫才コンビ「堺伸スケ・正スケ」を結成して漫才師デビューを果たしました!

当時大阪市にあった松竹芸能運営の劇場「角座」で初舞台を踏みましたが、その2年後の1961年にコンビは解散しました。

その後、当時の人気漫才師である横山ノックさんに弟子入りすることになりました。

これを機に「横山やすし」という芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍します。

何度も横山やすしさんは、漫才コンビを結成しますが、漫才に対して熱心な横山やすしさんと相方との温度差がありコンビは解散ばかりしていたようです。

「コンビ別れの名人」という不名誉なあだ名がつくほどでした。

横山やすしさんは、西川きよしさんと1966年に結成した漫才コンビ「やすしきよし」を結成します。

とても人気を博した伝説的な漫才師です。

浪曲漫才コンビ「中山礼子・八多恵太」の2人に、吉本新喜劇の役者だった西川きよしさんとコンビを組むことを勧められたのがきっかけだったようです。

独特なテンポでボケとツッコミが次々と入れ替わる「型破り漫才」がウケ、結成からわずか1年足らずで「第2回上方漫才大賞」で新人賞を獲得するなど、とても意気ピッタリの漫才が特徴的でした。

マシンガンのように展開していく巧みな話術で観客の爆笑を自分の物にしていました。

結成わずか5年足らずの1970年には「第5回上方漫才大賞」で大賞を獲得し、名実ともに日本一の漫才コンビへと躍進していきました。

また、プライベートでは、1969年11月に長男である木村一八さんが誕生しています。

天才と評されていた横山やすしさんですが、酒癖の悪さから、

・無免許運転
・飲酒運転
・傷害事件
・二日酔いによる番組ドタキャン

など不祥事をおこしてしまいます・・・。

1970年には、タクシーに乗車した際に、無理やり運転を代わらせてタクシーを走行させ、運転手への傷害と無免許運転で起訴され、2年4ヶ月の謹慎処分を受けてしまいます。

1973年春に芸能界復帰を果たすと、その年に最初の妻と離婚し、1975年に3歳年下の一般女性、木村啓子さんと再婚。

この妻・啓子さんとの間には、横山やすしさんにとって第3子となる次女・光さん(漫才コンビ「さゆみ・ひかり」の木村ひかりさん)が1980年10月19日に誕生しています。

1977年4月には、またしてもタクシー運転手とトラブルを起こしてしまいます。

差別的な暴言を吐いてしまい、タクシーの車体に蹴りを入れてしまったりなどしたため、運転手から訴えられ民事裁判で10万円の慰謝料支払いを命じられています。

1982年、横山やすしさんは生放送の情報バラエティ番組「久米宏のTVスクランブル」にコメンテーターとしてレギュラー起用されます。

しかし、なんとこの頃から酒に酔った状態でテレビ出演するようになりました。

放送中に共演者に暴言を吐いたり、放送禁止用語を連発したり、時には「黙秘権」を主張して一切喋らなくなったり、放送中にトイレに行ったり、観客に話しかけたりと問題行動を連発してしまいます・・・。

1984年11月、飛行機に乗り遅れて生放送に穴を開けたのがトドメとなり番組を降板させられ、吉本興業からも無期限の謹慎処分を受けてしまうことになりました。

1986年4月、過度の飲酒などで健康を害してしまった結果、吐血して緊急入院しました。

この時には酒をやめると宣言したものの、1987年12月には、司会を務めるクイズ番組「スター爆笑Q&A」に酒に酔った状態で出演し、ゲストに暴言を吐いて降板処分となってしまいます。

1988年には、二日酔いを理由にレギュラーだったクイズトーク番組「三枝やすし興奮テレビ」をドタキャンし、これも降板となってしまいました。

1988年11月、今度はまさかの息子さんである木村一八さんがタクシーの運転手に対して暴行を働き重傷を負わせて逮捕される大事件を起こしてしまいました。

当時事件の重大さを認識しないまま記者会見を行ったため、「息子を甘やかしすぎたのでは?」とのレポーターからの質問に対し「おい、ねぇちゃん!俺は厳しく教育してるぞ」と反論「男は喧嘩するくらいで丁度ええ!」と、息子・木村一八さんの行動を正当化するような発言をしてしまいます・・・。

しかし、息子である一八さんが暴行を働いたタクシー運転手には何も落ち度がなく、直前に別のタクシーに乗車拒否を受けた木村一八さんが、次に停車したタクシーの車体に一方的に八つ当たりのように蹴りを入れ、驚いて降りてきた運転手にも仲間達と共に殴る蹴るの暴行を加えたと言われています。

また、障害が残るほどの重体に陥らせた悪質な事件の内容でした。

事件の全容を知った横山やすしさんは、自ら責任取る形で無期限謹慎を申し入れました。

1989年3月に復帰したものの、翌4月に飲酒状態で車を運転してバイクを相手に人身事故をおこしてしまいます・・・。

事故後の会見で横山やすしさんは、「わざとやったわけじゃないのでどうぞ宜しくお願いします。」と軽いノリでマスコミに受け答えして反省の色が見えませんでした。

結果的に、1989年に所属していた吉本興業から解雇されてしまいました。

吉本興業から解雇処分を受けた後、横山やすしさんは悲惨な晩年を送っています・・・。

芸能界から干された横山やすしさんは、収入がなくなってしまったため、嫁の啓子さんがNHK集金のパートタイマーなどで家計を支えていたようです。

1992年、内田裕也さん主演、宇崎竜童監督の映画「魚からダイオキシン!!」にヨコヤマ役で出演し芸能界に復帰します。

しかし、テレビの仕事にはなかなか戻ることができず、「ミナミの帝王」シリーズの第1作目「トイチの萬田銀次郎」など、Vシネマの世界へと活動の場を移しました。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次