破天荒という言葉が良く似合う昭和の伝説の漫才師である「横山やすし」さん。
数々の伝説を作っている横山やすしさんの波乱の人生を振り返ってみましょう。
今回は、
・横山やすしの晩年画像と波乱万丈の人生!
・横山やすしのダウンタウンの公開説教や競艇ボート事件など3つの伝説
・横山やすしと山口組との関係も調査!
という内容でお伝えしていきます。
横山やすしさんは一体どんな方なのでしょうか!
横山やすしの晩年画像と波乱万丈の人生!
横山やすしさんの晩年の画像や経歴、プロフィールなどを紹介します。
横山やすしのプロフィール
とても若くして亡くなりになっています。
横山やすしの生い立ちと経歴
横山やすしさんは、は、太平洋戦争中の1944年3月18日、高知県宿毛市沖の島の弘瀬という場所で誕生しました。
体重は2キロにみたない未熟児だったそうです。
父親は沖の島の巡業にきた旅芸人だったようで、母親は旅館で仲居として働いていた女性で、婚外子として誕生したようです。
その後、生後3か月の時に、高知県に疎開して来ていた木村家に養子に出されて、戦争が終了後に大阪府堺市に移住し、そこで育ちました。
大阪堺市立旭中学校へ進学した横山やすしさんは、同級生がラジオ番組の歌合戦で合格したことに刺激を受けます。
素人参加型のラジオ番組「漫才教室」に出演したことをきっかけにプロの漫才師を志すようになりました。
中学卒業後に、横山やすしさんは、「松竹新演芸」という現在の松竹芸能に入社します。
漫才作家の秋田實さんに弟子入りして修行を積みます。
修行をしながら、横山やすしさんは「堺伸スケ」という芸名を名乗って同級生と漫才コンビ「堺伸スケ・正スケ」を結成して漫才師デビューを果たしました!
当時大阪市にあった松竹芸能運営の劇場「角座」で初舞台を踏みましたが、その2年後の1961年にコンビは解散しました。
その後、当時の人気漫才師である横山ノックさんに弟子入りすることになりました。
これを機に「横山やすし」という芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍します。
何度も横山やすしさんは、漫才コンビを結成しますが、漫才に対して熱心な横山やすしさんと相方との温度差がありコンビは解散ばかりしていたようです。
「コンビ別れの名人」という不名誉なあだ名がつくほどでした。
横山やすしさんは、西川きよしさんと1966年に結成した漫才コンビ「やすしきよし」を結成します。
とても人気を博した伝説的な漫才師です。
浪曲漫才コンビ「中山礼子・八多恵太」の2人に、吉本新喜劇の役者だった西川きよしさんとコンビを組むことを勧められたのがきっかけだったようです。
独特なテンポでボケとツッコミが次々と入れ替わる「型破り漫才」がウケ、結成からわずか1年足らずで「第2回上方漫才大賞」で新人賞を獲得するなど、とても意気ピッタリの漫才が特徴的でした。
マシンガンのように展開していく巧みな話術で観客の爆笑を自分の物にしていました。
結成わずか5年足らずの1970年には「第5回上方漫才大賞」で大賞を獲得し、名実ともに日本一の漫才コンビへと躍進していきました。
また、プライベートでは、1969年11月に長男である木村一八さんが誕生しています。
天才と評されていた横山やすしさんですが、酒癖の悪さから、
など不祥事をおこしてしまいます・・・。
1970年には、タクシーに乗車した際に、無理やり運転を代わらせてタクシーを走行させ、運転手への傷害と無免許運転で起訴され、2年4ヶ月の謹慎処分を受けてしまいます。
1973年春に芸能界復帰を果たすと、その年に最初の妻と離婚し、1975年に3歳年下の一般女性、木村啓子さんと再婚。
この妻・啓子さんとの間には、横山やすしさんにとって第3子となる次女・光さん(漫才コンビ「さゆみ・ひかり」の木村ひかりさん)が1980年10月19日に誕生しています。
1977年4月には、またしてもタクシー運転手とトラブルを起こしてしまいます。
差別的な暴言を吐いてしまい、タクシーの車体に蹴りを入れてしまったりなどしたため、運転手から訴えられ民事裁判で10万円の慰謝料支払いを命じられています。
1982年、横山やすしさんは生放送の情報バラエティ番組「久米宏のTVスクランブル」にコメンテーターとしてレギュラー起用されます。
しかし、なんとこの頃から酒に酔った状態でテレビ出演するようになりました。
放送中に共演者に暴言を吐いたり、放送禁止用語を連発したり、時には「黙秘権」を主張して一切喋らなくなったり、放送中にトイレに行ったり、観客に話しかけたりと問題行動を連発してしまいます・・・。
1984年11月、飛行機に乗り遅れて生放送に穴を開けたのがトドメとなり番組を降板させられ、吉本興業からも無期限の謹慎処分を受けてしまうことになりました。
1986年4月、過度の飲酒などで健康を害してしまった結果、吐血して緊急入院しました。
この時には酒をやめると宣言したものの、1987年12月には、司会を務めるクイズ番組「スター爆笑Q&A」に酒に酔った状態で出演し、ゲストに暴言を吐いて降板処分となってしまいます。
1988年には、二日酔いを理由にレギュラーだったクイズトーク番組「三枝やすし興奮テレビ」をドタキャンし、これも降板となってしまいました。
1988年11月、今度はまさかの息子さんである木村一八さんがタクシーの運転手に対して暴行を働き重傷を負わせて逮捕される大事件を起こしてしまいました。
当時事件の重大さを認識しないまま記者会見を行ったため、「息子を甘やかしすぎたのでは?」とのレポーターからの質問に対し「おい、ねぇちゃん!俺は厳しく教育してるぞ」と反論「男は喧嘩するくらいで丁度ええ!」と、息子・木村一八さんの行動を正当化するような発言をしてしまいます・・・。
しかし、息子である一八さんが暴行を働いたタクシー運転手には何も落ち度がなく、直前に別のタクシーに乗車拒否を受けた木村一八さんが、次に停車したタクシーの車体に一方的に八つ当たりのように蹴りを入れ、驚いて降りてきた運転手にも仲間達と共に殴る蹴るの暴行を加えたと言われています。
また、障害が残るほどの重体に陥らせた悪質な事件の内容でした。
事件の全容を知った横山やすしさんは、自ら責任取る形で無期限謹慎を申し入れました。
1989年3月に復帰したものの、翌4月に飲酒状態で車を運転してバイクを相手に人身事故をおこしてしまいます・・・。
事故後の会見で横山やすしさんは、「わざとやったわけじゃないのでどうぞ宜しくお願いします。」と軽いノリでマスコミに受け答えして反省の色が見えませんでした。
結果的に、1989年に所属していた吉本興業から解雇されてしまいました。
吉本興業から解雇処分を受けた後、横山やすしさんは悲惨な晩年を送っています・・・。
芸能界から干された横山やすしさんは、収入がなくなってしまったため、嫁の啓子さんがNHK集金のパートタイマーなどで家計を支えていたようです。
1992年、内田裕也さん主演、宇崎竜童監督の映画「魚からダイオキシン!!」にヨコヤマ役で出演し芸能界に復帰します。
しかし、テレビの仕事にはなかなか戻ることができず、「ミナミの帝王」シリーズの第1作目「トイチの萬田銀次郎」など、Vシネマの世界へと活動の場を移しました。
同年の7月には、右翼団体「風の会」から、第16回参議院議員通常選挙に比例区で出馬しますが、落選。
落選後のインタビューで横山やすしさんが言い放った「国民がアホや!」の言葉は流行語になり、その人気の健在ぶりを示しますが、不祥事を繰り返した横山やすしさんを使うテレビ局はなく、華やかな世界に戻ることはありませんでした・・・。
選挙直後の8月には、横山やすしさんが何者かに暴行を受けて重要を負って緊急入院しました。
この影響で一時は失語症などになるなどしていますが、犯人は捕まっておらず選挙絡みとの噂や横山やすしさんが人妻相手に不倫をしていたということから、その相手の夫からの報復とも噂されています。
1993年、横山やすしさんは妻の啓子さんと共に、コメディ界の大物・大村崑さんの自宅を訪れ「これからは夫婦で漫才をしたい」と相談します。
大村崑さんは「まずは君が元気でいる事を世間に知らせるのが先だ」と諭し、「やすしを囲む会」を企画したそうです。
この会には150人ほどが集まったものの、肝心の芸能関係者や、相方の西川きよしさんはじめ、かつての芸人仲間は、ほとんど誰も来ない寂しいものとなりました・・・。
大村崑さんは後の横山やすしさんの葬儀の場で「あの時(やすしを囲む会)は応援せずに、今になって」と怒りをあらわにしていたようです。
1995年7月、横山やすしさんは、京都府八幡市の石清水八幡宮で開催された太鼓まつりにゲスト出演しました。
久々に大衆の前に姿を見せましたが、当時50歳とは思えないほど、体は老け込んでやつれてふらつき、まるで高齢者のようであったと、観覧した方々に大きな衝撃を与えました・・・。
横山やすしさんは、1996年1月21日の夜に、大阪府摂津市の自宅で意識を失っているところを妻の啓子さんが発見しました。
発見した時には、心臓と呼吸が停止しており、緊急搬送されましたが死亡が確認されました。
横山やすしさんの死因は、「アルコール性肝硬変」でした・・・。
晩年の横山やすしさんは、水を浴びるように酒を飲んでいたということで、1986年には「アルコール依存症」と「重度の慢性肝炎」と診断されています。
酒をやめなければ、10年以内に死亡するとの警告を受けていたようです。
横山やすしさんは、医師の警告を無視して酒を飲み続けて、市の前日にも大量のビールを飲んで吐き出して、妻の啓子さんに「ちょっと調子がおかしいから明日病院に行かなあかん」と言っていたようです。
輝かしい芸能界に戻りたい気持ちはあるものの、戻れない葛藤から尚更お酒が進んでしまったのでしょうね。
横山やすしのダウンタウンの公開説教や競艇ボート事件など3つの伝説
横山やすしさんの語り継がれている3つの伝説を紹介します。
横山やすしの伝説①ボートにのめりこみ過ぎてボートレースチームを結成
横山やすしさんは、ボートレースにものめり込み、私財を投じてボートレースチームを結成しました。
若い頃に、競艇選手を夢見たものの視力が規定に達しなかったためその道を諦めた横山やすしさん。
漫才師として成功したのちに特例でボート選手のライセンスを交付され、自らボートを購入し、私財を投入してボートレースチーム「横山レーシング・チーム」を結成しました。
アマチュアのボーレースに出場し、「全日本K400選手権大会」で優勝するなどの実績も残されているようです。
横山やすしさんの葬式に参列した、中学時代からの親友で、競艇のスター選手の野中和夫さんは弔辞で、「今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に走ろう!古いエンジンも持ってきたる!」と語っています。
とても温かい方々に囲まれていたようですね。
横山やすしの伝説②若手自体のダウンタウン(当時ライト兄弟)を公開説教
横山やすしさんは、自信が司会を務めていた演芸番組である「ザ・テレビ演芸」でダウンタウンがまだ若手でライト兄弟と名名乗っていた頃に公開説教をしています。
、彼らのウリである尖った漫才を披露して会場を沸かせましたが、これに対して横山やすしさんが痛烈な批判をしました。
ダウンタウンの2人はこの時の漫才で当時社会問題になっていた「家庭内暴力」を取り上げていました。
「親なんて本気出したらいつでも殺せる」「おとんとか先生を直接殴ったら問題になるので、藁人形で釘打つ」といった少々過激な内容の漫才だったようです。
この漫才に対して、「あんたら2人は悪質な笑い」「こんなんテレビ出るような漫才とちゃう」と痛烈に批判しただけでなく、「ライト兄弟」という名前に対しても、「航空ファンにまで迷惑かける」とケチをつけたようです。
1分10秒あたりから始まります。
説教を受けて不服そうな若いダウンタウンの2人の姿も今となってはとても貴重なものですよね。
ダウンタウンの2人はこの後、大ブレイクを果たし、冠番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」の中で、横山やすしさんを極端にパロディ化したコント「やすしくん」をしていました。
しかし、横山やすしさんとダウンタウンには因縁があったため、「やすしくん」に対して批判的な意見もありました。
横山やすしさんがセスナ機から「日本一の漫才師死ぬ!」と言って飛び降りるコントを放送した直後に、横山やすしさんが本当に急逝したために問題になったため、このコントは打ち切りなったと言われています。
横山やすしの伝説③セスナ機を買おうと渡米したが、代金を踏み倒し無免許で乗り回す
横山やすしさんの豪快エピソードとして一番有名なのが、1980年にセスナ機を購入した時のことです。
息子の木村一八さんによれば、その日横山やすしさんが突然、当時中学2年生だった一八さんに「今からアメリカに飛行機を買いに行くから見届けろ」とアメリカへ連れて行き、購入に立ちあったといいます。
横山やすしさんは、7,000万円を現金で用意すると、そのまま渡米して購入交渉時には日本語でまくしたて強引に1,500万円も値引きさせたといいます。
また、頭金の5,000万円だけを支払ってあとは踏み倒したとのエピソードも語られているので、どちらの話が真実なのかは不明となっています。
豪快に購入した話もすごいですが、、タレントの島田洋七さんがセスナ機に乗せてもらった際、横山やすしさんに「忙しいのによく免許取れましたね」と尋ねると「免許?そんなもんあるかい!」と言われたということで、免許も持っていなかったことが分かります。
横山やすしさんは操縦をしたりしていましたが正式なパイロットが同乗していたため、離着陸などはパイロットが担当していたため事故等には、ならなかったということですね。
横山やすしと山口組との関係も調査!
悲惨な晩年を送った横山やすしさんでしたが、2019年には週刊新潮の取材で、横山やすしさんが最後の数年間、指定暴力団である「山口組」の幹部(当時)のお世話になっていたことが明らかになりました。
1992年~1993年頃に、当時山口組中野会岩頭補佐だった竹垣悟さんは、直系の親分であった山組組岩組補佐(当時)の中野太郎さんから「やすしを使ってくれへんか?」と横山やすしさんの面倒を見るように頼まれたといいます。
横山やすしさんの元々ファンだったという竹垣悟さんはこれを承諾して営業(話題となった闇営業)の世話をしたり、横山やすしさんが訪れるたびに5~10万円ほどのお小遣いを渡したりしていたようです。
晩年、多額の借金で首が回らなくなっていた横山やすしさんが、謝金取りに対し裏社会の大物だった竹垣悟さんの名前を出せるようにと、竹垣悟さんは1994年位横山やすしさんと兄弟盃を交わしています。
山口組系の幹部を頼って、借金取りからの難を逃れていたようですね。
横山やすしの晩年画像と波乱万丈の人生!ダウンタウンの公開説教や競艇ボート事件など3つの伝説と山口組との関係も調査!まとめ
今回は、横山やすしさんについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか?
横山やすしさんは、破天荒という言葉が良く似合いますよね。
エピソードを調べているうちに、とてもビックリすることばかりでした。
いろいろありましたが、漫才師としてはとても面白い方だったので、漫才をしている姿を見てみたかったものですね。